ボストン茶会事件をわかりやすく説明!コーヒーとの意外な関係とは?

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ボストン茶会事件(ボストン・ティー・パーティー)は、1773年に起こりました。

イギリスからアメリカが独立する戦争のきっかけとなった、とても重要な事件です。

お茶会なんてとても楽しそうな雰囲気なのに事件??
しかも戦争のきっかけ??

驚きですよね。

この記事では、

  • ボストン茶会事件の概要
  • 事件の背景となるイギリスのセコイ金集めとボストン虐殺事件
  • 事件の原因と、自由の息子達とは
  • 事件の影響と茶箱を投げられる博物館

を分かりやすく順を追ってお話しします!

目次

ボストン茶会事件とは?

まず簡単にまとめます。

  1. ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん)
    英語だと、ボストン・ティー・パーティー(Boston Tea Party)
  2. いつ?:1773年12月16日
  3. どこで?:マサチューセッツ植民地(現在のアメリカマサチューセッツ州)のボストン
  4. 誰が?:イギリス本国議会の植民地政策に怒った植民地人の急進派約50人
  5. 何をした?:ボストン港に停めていたイギリス東インド会社の船にネイティブアメリカンに変装して侵入
    船荷の茶箱342箱(1万8千ポンド)を「今夜、ボストン港をティーポットに!」と叫びながら海に投げ捨てた事件のこと
  6. どうして重要?:アメリカ独立戦争のきっかけとなったから

不思議な名前の事件だと思っていましたが、

今夜、ボストン港をティーポットに!

この言葉がティー・パーティーという名前の元になっているのですね。

ちょっと皮肉っぽくて、良いネーミングだなと思いました。

当時の様子を描いたイラスト
当時の様子を描いたイラスト
インディアンの格好の人が船から茶箱を投げ込んでいます
Nathaniel Currier, Public domain, via Wikimedia Commons

では、具体的に事件の背景に迫っていきましょう!

イギリスの課税とボストン虐殺事件

アメリカは1500年代から、スペイン、フランス、イギリスなどヨーロッパの植民地でした。

1700年代に入り、イギリスとフランスが数年間に渡る戦争を行い、遂にイギリスが勝ちました。

植民地アメリカはイギリスの物になりましたが、戦争でお金をたくさん使ってしまったイギリスは、

植民地を守るためのお金だから、植民地の人から税金を取ってやろう!

と、次々と課税をしてきました。

1764年 砂糖法

砂糖の他、ワイン、コーヒー、衣類などにも課税しました。

植民地の商人達が打撃を受け、強い反対で1766年に撤廃されました。

1764年 通貨法

アメリカ独自の通貨の発行を禁止しました。

これだけでは足りなかったようで、イギリス、こんなのも出しました。

1765年 印紙法

新聞、パンフレットなどの印刷物はもちろん、暦やトランプなどにまで課税(イギリスの印紙を貼るように)しました。

大学の卒業証書にも2ポンド課税されたそうです。

たくさんの印紙が貼られています
たくさんの印紙が貼られています
Board of Stamps (engraver unknown), Public domain, via Wikimedia Commons
MAKI

もう、むちゃくちゃですね^^; トランプですよ、トランプ
そこまでお金ないのかい!って感じです

ここまでいくとコメディ映画の世界みたいで、笑えます。
でも現実にそこで生活している人達は、もちろん笑ってなんかいられない訳で。

大反発をくらい、翌年には撤廃されました。

しかしイギリス、凝りません。
また新しいのを出してきました。

1767年 タウンゼンド諸法

ガラス、鉛、ペンキ、紙、紅茶など日常品に課税しました。

タウンゼンドは人の名前です。
でも法を発したその年に、ご本人は亡くなられています。

この法も、もちろん大ブーイングでした。
イギリス製品ボイコット運動が起こりましたが、それでも3年続きました。

ボストン虐殺事件
Alonzo Chappel, Public domain, via Wikimedia Commons

撤廃となったきっかけは、1770年に起きたボストン虐殺事件です↑

虐殺なんて言うと恐ろしい感じですが、イギリス兵が暴動を起こした市民5人を射殺したという事件です。

市民は普段からタウンゼンド諸法に強い不満を持っていましたから、暴動が起こりやすい環境だったのでしょう。
そこにイギリスの兵士が無差別に発砲。

市民にとっては、市民への「虐殺」に見えたのでしょうね。

タウンゼンド諸法、全撤廃はされずひとつだけ残ったままでした。
そう、紅茶だけは高く課税されたままだったのです。

この紅茶が、と〜っても大事だった!というのが、次のお話です。

ボストン茶会事件の原因となった茶法

実は当時、紅茶は植民地の人々の間にも浸透していて、大人気だったのです。

それだけに紅茶の税金が高いままなのには納得がいきませんでした。

そこでオランダ商人からの密輸茶が広まり、皆、イギリスのお茶は買わなくなりました。
高いお茶を買いたくないですからね。

紅茶とお菓子

ところでこの頃、こんな言葉がありました。

代表なくして課税なし

植民地の人は、イギリスの議会に自分たちの議員(代表)を送る権利がありませんでした。

自分たちの代表がいない議会が決めた課税に従うことはない

権利がないんだから、義務もないよ、という訳です。
当たり前ですよね。

そして、こんな風に思っている訳ですから、高い課税に不満も強くなる訳です。

とっても真っ当な意見だと思いますが、イギリスからすれば、植民地の分際で!と思われそうな気もしますね^^;
そんな中、イギリスは次の法を制定しました。

1773年、茶法

イギリス東インド会社に植民地への独占販売権を与えました。

大量の在庫を抱えていた東インド会社は、紅茶を安く販売することができました。
これは、オランダの密輸業者に廃業を迫るものでした。

でも安く買えるようになったのなら、良かったじゃない?

ところが、そうはいきませんでした。

密貿易で生活の糧を得ていた人達にとっては、特定の会社に特権を与えるこの法は面白くないものだったのです。

  1. これを足掛かりに全ての貿易を独占するつもりでは?
  2. 課税権を認めてしまうことになるのでは?

とイギリスへの反対運動が起こりました。
(イギリスからの独立ではなく、「代表なくして課税なし」が目的でした。)

そして起こったのが、

ボストン茶会事件

ボストン港にイギリスのお茶を投げ込んでやれ〜!

でした。

ボストン茶会事件を起こした自由の息子達

事件を起こしたのは、自由の息子達と呼ばれた愛国急進派です。

ボストンではサミュエル・アダムズ(画像の左上)が創立者で中心となっていました。

自由の息子達
Several painters 18th century, Public domain, via Wikimedia Commons

騒ぎに駆けつけたボストン市民は、応援するでもなく、止めるでもなく、眺めていたそうです。

個人的には、フェイスペイントなどでネイティブアメリカンに変装していた、というのが、なんか卑怯で嫌ですね。

事件のその後と影響、博物館と復元船

翌年、イギリスは報復にでました。

被害を弁償するまでボストン港は閉鎖。
さらに「耐えがたき条令」と言われた、強圧的諸条令を制定してきました。
何がなんでも屈服させようとしてきたのです。

その後、植民地の人達がどうなったか?どうしたか?

団結がさらに強まり、アメリカ独立戦争へと繋がっていきました。

過度な抑圧は反発の素ですね。

コーヒー派に転身

面白いのが、密輸するくらい紅茶が大好きだったのに、紅茶までボイコットするようになったことです。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というヤツですね。

だからアメリカでは今、コーヒーが主流なのです。

ボストン茶会事件がなかったら、今でもアメリカでは紅茶の方が飲まれていたかもしれません。

ボストン茶会事件船と博物館

ボストン茶会事件博物館
ボストン茶会事件博物館

赤い建物がボストン茶会事件博物館、黄色い船が復元された茶会船です。

復元船に乗って、当時のコスチュームを着た博物館の人と、茶箱を投げるデモンストレーションもあります。(これは楽しい^^)

ギフトショップには、たくさんの紅茶も売られています。

まとめ

ボストン茶会事件をわかりやすく説明!コーヒーとの意外な関係とは?、いかがでしたでしょうか。

  • イギリスが植民地支配戦争に勝利、いろいろと資金回収のため課税をしてくる
  • 植民地の人は反発、暴動から虐殺事件まで起きる
  • イギリスの東インド会社に融通した茶法に怒り、ボストン港に停まっていた船から自由の息子達が紅茶を捨てたのがボストン茶会事件
  • 報復にでたイギリスに、独立戦争への団結が強まった
  • 紅茶もボイコットし、コーヒー派へ

でした。

茶会なんて言うと、不思議の国のアリスのティーパーティーしか浮かばない私でしたが、今回調べて、とても勉強になりました。

特にアメリカがコーヒー好きになった理由というのが面白いですね^^

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